職人体験記

江崎さんインタビュー『色弱のアーティストが描く色のある世界感』

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江崎さんはいつ頃からアートに興味を持たれていたのですか?

興味は、物心ついた時にすでにありましたね。
ただ、まだその時は、アートというより絵を描くとか工作みたいなところからのスタートでした。そういうことがものすごく好きで。
そして兄も同じように好きで、その影響から真似をよくしていました。
それがとても楽しかったという記憶が最初ですかね。


 

真似とは、何かの絵を模写するなどしていたのですか?

ホントにそういうことです。後は、よく新聞チラシの裏に絵を描いたりしていました。
 

ご家族もアーティスト活動をされているのでしょうか?

そうですね。兄も現在アーティストなので、兄弟でアーティスト活動をしています。
兄は絵も描きますが、「スカルプチャー」という立体を創ってます。鍛金(たんきん)という金槌を使い、金属を叩いて加工する技法です。それを専攻して大学も卒業しています。
僕たちの地元は栃木で、兄は栃木の山奥にスタジオ(アトリエ)を持ち、そこで作品を作っています。

 

初めは趣味だったことを仕事にされるのはすごいことですね。
「仕事にしていこう」と思われたきっかけはありますか?

実は僕、「アーティストとして作品制作でご飯を食べるのは現実的ではない」と思っている人間でした。
「そのような職業では生活できないものだ」と思っていましたし。
ただ、サラリーマンとして就職して仕事をしていて、「やっぱりこれ違うな」というのが自分の中でずっとあって。
サラリーマン時代に、仕事が忙しくて寝る時間がなくても、絵を書いたり作品を作ったりすることはずっとやめませんでした。それだけ好きだったのですね。

それで「やりたいことってなんだろう」と考え直した時、シンプルに「アートでご飯が食べられたら最高だし、これが自分の一番したいことだな」と思ったんですよね。

やりたいことが分かっているのにやらないのは、もったいないと思ったんです。

ちょっと質問からは外れるかもしれませんが、『仕事はなんでもいい。作品が作れるなら』という考えにシフトした時点で「仕事はなんでも、やればご飯は食べられる。だけど作品を創ることはやり続けない限りできない」と感じたのです。
それからですかね、ずっと作品を創ってやっていこうと思ったのは。

 

いつ頃からそういう気持ちを持ったのですか?

学生の頃は全く思っていませんでしたね。高校卒業後は公務員になろうと思っていました。
 

高校生を卒業したら公務員になろうと思っていたんですか?

そうです。僕は「早く働きたい」という想いが強かったので。それに家が公務員家系でしたので「公務員になろうかな」と漠然と思っていました。
でも、身体的なことが理由で公務員試験に受からなくて。
僕はアートをやっていますが、少し色が分かりづらいんです。


 

色が分かりづらいというのは色弱などのことでしょうか?

そうですね、色弱、色盲があり最終試験をパスできませんでした。
公務員の道が途絶えた時、すぐにほかの道も思いつかず、「とりあえず好きなことを全部やってみよう」と思っていろいろやってみました。でもどれも自分にフィットする感じがしない。
そして、いろいろやってみた結果、食べられないけれどやり続けたのが、アートだったんです。絵を描くことはずっと続けていましたので、「これが一番フィットしているし、一番いいな」と思い、方向を決めました。

 

アートの道に進むと決められてから、作品を販売して仕事にするまではとても難しいと思います。どうやって乗り越えられたのですか?

最初は「作品を売る」ことが重要じゃなかったんです。
友達に「うまいね」と言われたり、作品を誉められたりしたかった。幼稚かもしれませんが、「自分がクリエイトしたモノを認められたい」という気持ちだけで始めました。
後は単純に、モノ物作りが好きでした。この気持ちは自分の中で大きかったです。

 

なるほど。初めは制作物の販売に重きをおいていなかったのですね。

そうです。ご飯を食べるためにアートをお金に換える時も、無理して買ってほしいとは思いません。どちらかというと、自分が好きでやり始めたことなので人を巻き込みたくない感じです。ですから買ってくれる人がいたら「ありがとうございます」と本当に心から思います。
「売れなくても、やりたいことは分かっている。作れる」
そう思ったら、仕事は、作品制作の時間がもてて、食料と画材を買う分のお金が稼げるものでいいとスパッと割り切ってやっていました。

その後、ギャラリーで展示をするようになると、ギャラリー側の運営方針があり、作品をビジネスとして見る人達とも関わるようになりました。僕ができなかった『創作物に価値をつける』ということを、とても協力的にやってくれるんです。
第三者が価値をつけて、販売部分を担ってくれるのはとてもありがたいことでした。
ギャラリーに任せることで販売員がいるイメージです。それがあって、徐々に作品でも収入を得られるようになっていきました。

 

江崎さんの人柄の良さが、周囲に協力者を引き寄せたのでしょうね。

協力してくれる人は多かったです。パッションを持ってやっていたので、周りも応援したり協力したりしてくれました。
実際、やりたくても続けられないことの方が多いですからね。ずっとこの歳まで続けてこられたのは、応援してくれる人達のおかげ。人に恵まれていますね。
本当に感謝しています。

 

アートが仕事になってからこれまでの何年もの間に、どのような紆余曲折がありましたか?

そうですね……まず最初はどうしても海外でトライしてみたくて。特にアメリカでやってみたいと思っていました。
就職がダメで何がやりたいかを考えた時に、兄とトルコに行ったことが大きかったですね。


 

思い立ってすぐに行動ですね。それは旅行だったのですか?

そうです。その時、兄は東京芸大に通っている大学生でしたけど、好きなことやっていて。一緒にトルコに行って、西洋や東洋、アフリカの文化が混ざっている場所で美術品や文化を肌で感じました。そして「あぁやっぱり僕も学びたいな」、「とにかく海外に出てやってみたい」と思いました。
歳が近いこともあり、兄のことをとてもライバル視している部分もありました。
だから東京芸大とか日本の大学には行きたくないなと思って。


 

ライバルだと思っているお兄さんと同じ立ち位置になるからですか?

そうですね。「一緒になっちゃう」という気持ちもありました。
歳が近いので中学校も高校も被っていて、その先も同じは嫌だなって(笑)
それで、勉強するなら元々憧れがあったアメリカがいいなと思ったんです。
「アメリカに勉強しに行こう」と決心してから、行くために本当にいろいろな仕事をしました。資金捻出のために、日中は工場、夜はバーで働いて、土日は工場が休みなので結婚式場で働いていました。

 

いろいろなところで働かれたのですね!

そうですね。一週間、まるまるフルで働いて、数年間で留学資金を貯めました。
それでも、空いてる時間はずっと絵を描いたり何か作ったりしていましたね。
やがてお金が貯まり海外留学はできましたが、ずっとアメリカに残り続けるのはやはり厳しかったですね。
最初は学生で勉強していて、卒業後は向こうで仕事をしながら勉強していたのですが、リーマンショックが起きて、アメリカ経済も悪化してしまいました。
仕事の契約延長ができなくなり、それ以上働けない状況に。

 

憧れたアメリカで学んでいる時に……辛いですよね。

辛かったですね。「残りたい。でも難しい」と、ものすごく葛藤がありました。
本当にガッツがあれば残れたのかもしれません。でも「これは、帰れということか?その分岐点なのかな」と思うようになり帰ってきました。

日本に戻ってからも、またアメリカに行きたいという気持ちがあり、戻ってからは飲食店で働こうと思っていました。当時、アメリカでは日本食店の日本人雇用が多く、ビザが取りやすかったからです。だからビザを取るまで飲食店で働いて、お金を貯めました。

そんな時、兄が村上隆さんのところで展示をする機会がありました。
兄に「ビザの発行手続き待つ間、やることがないなら手伝ってくれないか?」と言われて。

 

普段とは全く違う作品づくりを手伝うのは難しそうですね。

そうですね。兄はそのころから鍛金で立体作品を制作しています。
そのベース部分を作る手伝いをしましたが、僕は平面に絵を描いている人間なので、立体はとても難しかったです。
ですが、やっていくうちにハマってしまって。とても面白かったですね。
そんなふうに兄を手伝いながら飲食の仕事をして、海外にまた戻ろうと思っていました。

会社に入ってお金を稼ぐような幸せが目標なら、おそらくアートは続けていませんでした。絵なんて描かずに、仕事でお金を稼ぐというルーティンワークをしていたと思います。
だけどそのような生活は全く求めていませんでした。仕事はアートをやるためのもの。
今後の不安などなく、「今、ご飯食べられているからいいじゃん」と思ってました。

 

強靭なメンタルがあったからこそ紆余曲折があっても続けてこれた感じですね。

そうかもしれないですね。海外に出たことも良かったと思います。
海外は日本よりも貧富の差が激しいですし、仕事をしたくてもできない人がいっぱいいます。日本は選ばなければ仕事はいくらでもある。「なんて恵まれているんだろう」「戻れる場所が日本でありがたいな」と思ったことを覚えています。

 

大変なご経験のうち、一番辛かったことやどうやってそれを乗り越えたかを教えていただけますか?

周りから見ると「すごい辛いじゃん?大変じゃない?」と言われることもありますが、個人的には意外と、そんなに辛いことはなかった……というか辛いと感じたことがないんです。
例えば、寝る時間がない、人の倍働いて友達や恋人と会う時間もないなど、一見不幸せに見えるかもしれません。
でも当の本人である僕は、やりたいことができていて、そのために忙しく働いているだけ。
もうそれが普段であり日常なので慣れてしまったのか、それほど辛いとは思わないんですよ(笑)

 

え!!辛いと感じたことがなかったのですか?

「全く」と言っていいほどありませんでしたね。自分と同世代の人とかと比べたら、「自分はすごく劣っているな」と思うところはたくさんありますが。
やっていることに関しては、本人は意外と、辛いとはあまり思っていませんね。
もちろん、人並みに辛いと思うことも少しはありますよ。
例えば、友達が結婚してご祝儀出さなきゃいけない時とか。友達だからもちろん出すけど「このお金があったら、もう少し作品が創れるなぁ、材料買えるなぁ、ご飯が食べられるなぁ」とか思うこともありましたね。すごくネガティブな話ですけど(笑)
でもそんなの、アートを仕事として始める時に覚悟を決めているんです。
だって食えないと分かってやっているんだから。覚悟がなかったら始めませんよ。

 

覚悟があれば感じ方が変わるということですね。
実際にご飯が食べられない日もあったのですか?

全然ありましたね。あとはタイミング悪く、家がなくなってスタジオに住んでいたこともあります(笑)
 

スタジオはあるのに家がない……。だからスタジオに住むのですか?

そうですね。仕事はあるけど家がない。仕事をしながらスタジオに帰って、寝泊まりしながら作品を作っていました。4か月くらいは真冬に銭湯へ通っていましたね。


 

そのような身体的な辛さも、好きなアートのためなら軽減されるのですね。

そうですね。生活のことよりも、どちらかというと、自分よりもすごく良い作品を作る方がいて「あぁ……僕はまだまだダメだな」と思う時の方が辛いですね。
「自分に能力や才能はあるのかな」と揺らぐ時が辛いです。

 

色が判別しにくいとのことでしたが、カラフルなものを作る際に難しさはありますか?

ずっとこの目の感覚で生きてきましたから、あまり気になりませんし、ある程度の慣れもあります。ただ、色の境目や濃淡は分かりにくい部分があります。
例えば普通の方は、緑と茶色や赤の見分けがつきますよね?でも、僕にとってはそのあたりの色が曖昧です。あとはピンクと白、青と紫も曖昧です。ピンクは淡い白に見えることも。
おそらく色の判別が弱い人には、色によって、単体だと分かるのですが隣に並ぶとわかりにくくなるものがあるのです。「ここ何色だろう?」ということはよくあります。
まぁでも、「慣れ」でどうにかなっています。

 

初めは「できる」と自分に言い聞かせて作品を作っていた部分はありますか?

ありますね。まぁ意固地になって「できる」と言い聞かせている部分は少なくないと思います。


 

ありがとうございます。江崎さんのアートに対する思いをすごく感じました。
次に作品紹介をお願いします。こだわりのある作品を教えていただけますか?

今、このスタジオにある作品のなかでは、表にある絵です。
以前の自分の作風と今の作風との分岐点というか、ここに繋がるまでで一番思い入れがある作品です。


 

これには江崎さんのどういう思いや思想が込められているのですか?

そうですね……『書き消し線』って、ご存知ですか?
 

書き消し線?

例えば、ボールペンとかで何かを描いたとして、間違えたら「あ、間違えた」とグチャグチャグチャって上にかきますよね。?
 

確かにそれは僕もやったことあります。

必ずといっていいほど、みんな、一度はやってしまう行為ですよね。
僕は、人間の成長がその『書き消し線』にとても似ているなと思ったんです。
要は、人間が成長していく中で、なにかを間違えたら消そうとする意識があると思うんです。でも、間違えることと消すことの間には、前の間違ったものが残るじゃないですか。
過去は絶対に消せない。起きたことは消せないけど、より良くしようと無意識にかき消そうとしているはずなんです。
「あー、あの時言い過ぎたな」と思えば、次は言い過ぎないように意識する。そこには成長や進化があると思うんです。でも起きたことは完全に消せない。

 

本当ですね!人間の成長に似ています。

『書き消し線』は誰もがやったことがある共通のものとして存在する。
その線を何回も重ねることにより、思想的な部分を文章ではなく絵の作品として見られるのではないかと考えました。
だから、書き消し線をモチーフとして何個も作り、それをレイヤーにして重ねることによって、作品のひとつの終着地点になのではないかなと。

レイヤーに分けるってことは過去があるということで、未来の完成体に、極力近づけていくための、そのレイヤーを作っていきたかったんですよ。
それを、ひとつの平面の中に奥行きを見せて作品を作りたかった。
この作品の中で消えてる部分は、良い部分であって、直した部分や自分が良くなったと思う部分なんです。
消えていない部分で間に残ってるのは、過去の間違えた部分や、その中でも多少良かった部分。それを残しつつ人は成長していくことを表現したかったんです。

 

この絵は人の「過去」から「未来」への成長を表しているんですね。

そうです。それを文章ではなく、ただひとつの書き消し線というモチーフを使って、しかもそれを何回も繰り返すことによって、ひとつのカタチになる作品を作りたかったんです。
 

作品を作ろうと思ったきっかけはありますか?

僕は、村上隆さんという有名なアーティストさんのギャラリーで何度か展示機会をいただいたことがあります。
その時は村上さんの文脈の真似をして、ファインアートというかポップなイメージの作品を作っていました。
でも、僕が同じようなことをしても彼には絶対勝てないし、自分オリジナルの文脈で戦わないと作品制作の意味がないと思ったんです。
村上さんがもともとはスーパーフラットで世界に作品を発信していて、ファインアートやポップで売れているなら、まず、それをやめようと思いました。


 

「やめる」と思ったことがきっかけで、新しい作品が生まれているんですね。

そうです。やめようと思って試行錯誤で文字を書いている時、上から消した線で『書き消し線』を思いつきました。この行為、自分の生き方にも通じる部分あるなって。
僕は作品を作る時に文章から書くんですよ。どういう作品なのかとか気持ちを表す感じですね。

 

絵を描くのに文章を書くところから始められるんですか!?

はい。文章を作ってから作品に起こしていきます。この作品もペンで書いている時に「あれ?これ……多分似てるな」とハッとしました。
自分が考えていることや過ちや挫折、コンプレックスさえも含めて、そこから少しでも成長したいという葛藤。この部分は、自分の中で一番作品に起こしたいことなんじゃないかなって。
そこから、どうしたら周りが共通認識として共有できる作品になるかと試行錯誤して。まず、きちんと文章化しようと思い、いろいろ書いてブラッシュアップしていきました。
この作品を以前の作品から今の作品になるための成長過程のひとつとして、過去と未来を切り取れたなら、自分のことでもあり、観に来た人とも共有できる作品になりえる。
そういう人の成長をあらわすテーマ性のある作品になると思い、これを作りました。

 

面白い考え方ですね。
作品を文章として書くというのは、例えば書き消し線があって、「書き消し線とは」というところから書き出していくのですか?

そうですね。「書き消し線ってなんだろう」と、まず考えます。
文章にし始めると同時に、無意識でみんなやっていることだなとも思いました。
絶対に人生でやったことがあるはずのことなので「無意識でやっている」ということがかなり重要だと思っています。
「やっている」という認識があるだろうというのがまず根本にあるので、文章化するまでもないな思った部分はありますね。もちろん文章にはしましたが。動きなどは説明する意味がないなと。


 

もともと描いていたアートを捨ててまで「成長」を題目にしようと決断したきっかけはなんですか?

きっかけは、2011年の東日本大震災です。僕は栃木県出身で、たまたま実家に帰っている時に被災しました。揺れている中で「もしかしたら死ぬかもしれない」という恐怖があり、その時「今しかできないことをやらないと」と思いました。自分が作りたい作品を作ろうと思ったんです。震災は自分の中の非常に大きな分岐点で、「作りたい作品を作る」と決めたきっかけになりました。そこからすぐにこの作品になったわけではありませんが、とても考えるきっかけになりましたね。
 

震災のときは何もかもが崩れ落ちていきましたよね。

震災と、その1年後の村上さんのところでの展示会での思いが重なって、自分で全く納得がいかなくなりました。このまま同じことを続けたいと思わなくなったんです。
 

自分が成長し、変わるタイミングで書き消し線を見て、人間の思想的な部分にリンクしたのですね。

そうですね。プラスアルファで「みんなで頑張っていく」という復興の意味合いもあって。
成長って、要は良くなること。そういう意味で復興にもつながっているんです。


 

確かに。 「成長」の捉え方はさまざまですが、悪いことには使いませんよね。

みんな必ず「良くしていこう」と思うものだから。
ただ、だいたいの人は現状維持が多いと思います。それでも、少なからず変わっていく部分はあると思うんです。
内面はもちろん、震災ではそれがたまたま対外的な「環境」もそうなった。
僕は作品の中でどう昇華しようかと考えたのが、成長という意味で分岐点です。

 

自分のその時の環境、想いと決断、全てがこの絵に入り込んでるってことですね。

そうですね。その時は本当に「これだな」と思ったんで。続けていくことによって、どんどん良くなっていって更につながって。
ずっとこういうテーマ性をもって制作しています。今、作っている新しい作品も見た目は異なりますが背景や文脈は全部がつながっていく作品になってます。

 

最後になりますが、作品のこだわりを教えていただいていいですか?

僕は、色にコンプレックスがあったので昔は色をのせるのが嫌いでした。だから昔は白黒の絵をよく描いてたんです。
小学生の時に魚の絵を描いたら、魚は描けるけど色がちょっと違うんです。
みんな、青とか紫、紺、水色などを普通に使いますが、僕は、茶緑っぽい色。

表現のひとつとして「僕はこういう風に見えるから別にいい」と思っていましたが、一般的にみると、僕が使う色は「違う」と言われます。指摘されるので、白黒でしか描かなかった時がありました。描くことはしても色を塗らないとか。
 

それは色の使い方が認められないからですか?

そうですね。それで黒の鉛筆だけを使って描き、グラデーションをつけるなどしていました。でもアーティストとして活動するようになり、それも別に才能というか個性のひとつとして前向きに捉えるようになりました。
前向きに捉えることで「自分の見えてる色を怖がらずにのせていこう」と思えるように。
その後は暗い色よりも自分が好きな明るい色を意図して使うようになりました。
今はどちらかというと落ち着ついた色を使うようになってきました。ただ、見た目が分かりやすいのでビビットカラーを使うことも多いです。


 

江崎さんの作品に対する思いや価値観、とても面白いお話ありがとうございました!

 

江崎良平
1983年 栃木県生まれ
2008年 アメリカから帰国
2012年 hidari zingaro(中野)を主に展示を開始
以後、数年間試行錯誤しながら製作と作品の方向性を模索し
2019年10月、約5年ぶりと なるStone展を開催し現在に至る。

座右の銘
パウンディング・ザ・ロック(Pounding the Rock)
「救いがないと感じたときには、 私は石切工が岩石を叩くのを見に行く。 おそらく100回叩いても亀裂さえできないだろう。 しかしそれでも100と1回目で真っ二つに割れることもある。 私は知っている。 その最後の一打により岩石は割れたのではなく、 それ以前に叩いたすべてによることを。」

“When nothing seems to help,I go look at a stonecutter hammering away at his rock,perhaps a hundred times without as much as a crack showing in it. Yet at the hundred and first blow it will split in two,and I know it was not that blow that did it,but all that had gone before.”


 
 

Writer Profile


Takuto Suzuki
Inte-code.inc所属のインテリアコーディネーター。1991年静岡県生まれ。北欧インテリアショップの販売職を経て、inte-codeで空間のコーディネートを行う。その経験をもとにインテリアショップ体験記の運営、取材を担当。

 


Yoshiaki Ogiwara
インテリアショップ体験記のカメラマン、編集、取材を担当。
アパレル業界で10年働いた後、現在インテリアの勉強をしながら独立に向けて日々精進中。

 

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